死を解放や救済だと思えない、そういった感情の波が時折訪れる。これが何に起因しているのかを考える。

小学生の頃、岩崎書店から刊行された『恐怖と怪奇名作集』全10巻を学校の図書館で読んだことがある。これは海外の恐怖小説や怪奇小説の短篇集で、収録されていた作品がどれも面白く、また純粋な怖さがあって強く印象に残っている。

多分その中にこういった短編があった。

三人の強盗犯たちが夜に焚き火を囲みながら、それぞれ自分はどんな死に方をしたくないか、を話している。一人は絞首刑がいちばん嫌だと言い、一人はギロチンが一番嫌だと言う。……最後の一人がどんな死に方を嫌っていたかを忘れた。

その会話のあと、それぞれ分け前をもって強盗犯たちは別の場所へ向かう。一人はある街で保安官に捕まりそうになり、近場に居た通行人に金を渡して一芝居打ってもらって、自分は既に捕縛されているというフリをするために、偶然手に入れた羊の腸をロープ代わりにして自分を枯れ木に縛りつけさせる。保安官が彼のその姿を見て、ひとまず彼を後回しにし、近くにいるだろう他の強盗犯を探しにその場を離れていく。その隙に彼は通行人にロープを解いてもらって逃げる算段だったのだが、その日の照りつける陽射しと猛暑の中で、ロープ代わりにした羊の腸は乾燥してちりちりと縮んでいく。そして彼の首はゆっくりと締め上げられ、絞首刑で死にたくなかった彼はそのまま首を絞められて死んでしまう。

もう一人は盗んだ宝石を売り捌くため百貨店を訪れる。百貨店のエレベーターに乗っている途中、彼は警官の姿を見つけ、慌ててエレベーターから降りようとして、そしてエレベーターの操縦士は操作ミスでブレーキを引き忘れ、ギロチンで死にたくなかって彼はエレベーターとフロアの隙間に素っ首を撥ね飛ばされて死ぬ。

……もう一人の死に方が全く思い出せない。しまらない。

この短編が、因果応報というよりは「最も望んでいないことがその身に訪れる」ことの恐怖として、寓話的だからこそ刷り込まれて残っている。この感覚が私の中で少しずつ変質していく。

柔らかく曖昧な死生観や宗教観として、私はいつからか「死後の地獄というのはその人にとって最も苦しくつらいものになるはずだ」という感覚を持ち始める。信じているわけではなく、なんとなくよぎるイメージとして、小学生の私の中で地獄は個々の苦しみに対応しているからこそ地獄たりえる、と思えてくる。火で焼かれることや針山に投げ出されることが私に地獄たりえるだろうか?身体的に痛くて苦しければ苦しんで何かと帳尻が合うようには思えなかった。きっと私にとって最も苦しいことが見出されて、そしてその中に私は放り込まれるのだと思う。

そして私は中学1年生の時にうつ病になる。そこからずっと今までうつ病が治らないまま生きている中で、私にとっての苦しみは私の生活そのものになっていく。私はふと思う。私の地獄は今の生活と同じ形をしているに違いない。何度も私は自殺を考える。そのたびにもし死後の世界があったとして、そこは今の生活と同じ、何も変わらずひたすら何もできずに苦しみ続ける場所のように思えてくる。むしろ自殺したあとに既存の生活よりも更に苦しさを増している可能性を感じ始める。自殺の罪で深まる苦しみ。その感覚が一度でもよぎると、もう死に解放と救いを感じることができなくなる。本当はそんなものは一欠片もなくて、終わったあとには、こんな日々は無いんだと言い聞かせても、もう既に自分は元の世界で自殺してここにやってきたんじゃないか?ずっと連続する世界の転落を繰り返してどんどん苦しくなる生活の中で自殺の罪を重ね続けているんじゃないか?という妄想に支配されていく。解放されなかったから次も解放されないんだと思い始める。統合失調症が始まる。私は自分の現状から完全に目を背けて架空の人生を頭の中で歩むことで苦しみを緩和し始める。そしてそれが妄想であると気付く日が来て私はそれを打ち明ける。失望され落胆される。そこから本当に世界に立脚した生活を歩もうとして、でもその日までずっと伏せっていた私にできることはなくて、結局何もすることはできず、約束は守れずに私は見限られていく。何を書いているのか分からなくなった。多分これは着地点を見失ったのではなく書いていくうちに着地点の地面を掘り返して底を下げてしまったように思う。私のこれは文章を書いているのではなくて思考の散逸そのものだから。それが事実でなく妄想であろうと私にとってここは本当に苦しくて地獄たり得ていて。地獄の中に平静はない。まとまる思考も行動もない。結果まで辿りつけない。